朝鮮15代王:光海君(クァンへグン)治世とその時代

韓国の歴史
スポンサーリンク
Pocket
Facebook にシェア
LINEで送る

「王になった男」など韓国歴史ドラマの背景となる光海君(クァンへグン:1575~1641)は暴君として知られる。最近は名君としての評価もされ始めた。果たして真相はどうなのか。朝鮮実録はその後の政権によって書かれていることが多い。そのため、前政権の王の業績をどう評価するかは、やはり次の政権の恣意的な記録にならざるをえないのだろうか。

王世子として冊封

光海君(クァンへグン)は側室の母から生まれている。朝鮮では嫡男を王世子としてきた。庶子はその道から外される。光海君(クァンへグン)の父である宣祖(ソンジョ)も庶子であった。そこにコンプレックスがある。宣祖もなんとか自分の跡継ぎにはどうしても、嫡男になってほしい。しかし、彼の正室は体が弱く、子供が生まれなかった。文禄の役で義兵をまとめ、民衆を置いて逃げた宣祖とは異なって、民衆の評価の高かった光海君(クァンへグン)が王世子になるのは必須であった。

明はそれを認めなかったが、民衆の支持や子のない宣祖の跡継ぎには、光海君(クァンへグン)となることは党争が大きな影響も受けながら、大北派の勢力の後押しで王となることは確実となった。しかし、

永昌(ヨンチャン)大君の誕生と宣祖の死

1606年に宣祖は正室である仁穆王后(インモク王妃)との間に子を授かる。それが、永昌大君(ヨンチャンテグン)である。宣祖は徐々に光海君(クァンへグン)に冷たく接し始める。彼もそれを薄々感じとる。そして、1608年に宣祖は昇華してしまう。結局嫡男の永昌大君を王にすることなく。

その当時永昌大君は2歳であった。その背後には三つの党派が政争となって後押しをしていた。

大北派、小北派、西人派の党争

永昌大君を指示するのは小北派、光海君(クァンへグン)を指示するのは大北派そして、光海君(クァンへグン)の兄である臨海君(イメグン)は西人派という構造である。

その当時勢力が大きかった大北派は光海君(クァンへグン)をバックに粛清を始める。そうすることで、光海君(クァンへグン)の基盤を盤石なものにしようとしたのだろう。

永昌大君が母の仁穆王后(インモク王妃)の父と図って王位を奪おうとしているという嫌疑がかけられる。結局仁穆王后(インモク王妃)は徳寿宮に幽閉され、永昌大君は部屋の中で熱いオンドル部屋で蒸し殺しになる。光海君(クァンへグン)の弟の臨海君も死罪となった。

戦後の復興と後金との外交

このようなことから、光海君(クァンへグン)は暴君であるという評価がなされてきた。

それが

廃母殺弟

といって儒教の教えでは最も罪深いとされるものである。

しかし、血のつながらないとはいえ、弟を無残に殺し、大妃という位置にある人を幽閉することは簡単ではないのではないか

光海君(クァンへグン)には、もう一つの顔がある。それが、国を憂えて、戦後の復興や減税に取り組んでいることである。大同法という法律を制定させ、民衆が本来納めなければならない特産物を安いコメに変換し、多くの所有している貴族階級から多くの税を徴収しようとした。

これは民衆の歓迎を受けた。さらに外交でも手腕を発揮した。

それが、明と北方の後金後の清との二股外交である。明が後金と戦争になったとき、明は援軍を求めてきた。もし援軍を出すと犠牲者は多くなり、また後金との関係も気まずくなる。そこで、援軍をだしながらも、もし戦況が不利ならば、すぐに撤退するように指示した。後金には中立の姿勢を最後まで示した。それゆえに大きな国難を避けることができたのである。

その後の仁祖(インジョ)王の時には外交の失敗か、結局清の皇帝の前で膝づいて謝罪するという屈辱を味わう。

日本との外交も1609年に和議を成立させ、通信使派遣という段取りをつける。

内政や外交に手腕を発揮したことは、朝鮮の復興に大きく役立ったことは間違いない。しかし

その一方で不利益を被る勢力もいた。そこからクーデターが起きてしまう。

それが、仁祖反正(インジョパンジョン)である。

仁祖反正(インジョパンジョン:クーデター)

大同法によって不利になった地主たちは光海君(クァンへグン)を糾弾する。そんな中、宣祖の5男の息子綾昌君(ヌンチャングン)が推される。

光海君(クァンへグン)は妻と子供と共に、カンファ島に流される。子供は脱走を図るときに殺され、それを知った母は自害したという。

その後、光海君(クァンへグン)は済州島に流される。しかし彼は、生き抜くことを選んだ。

どんなにさげすまれても、

王だったとう面子も捨てて、人として生きることを選んだ。

そして66歳までその最果ての島で息を引き取る。

最後に

光海君(クァンへグン)は文禄・慶長の役、さらには後金との戦いという戦争、内政では党争争いのさなかで、王世子、そして王として生きた。

王室という単位よりも、民をどう生かし、国をどう守るか。彼の信念はそこにあったのかもしれない。

歴史ドラマのテーマとして扱われるのも、そんな光海君(クァンへグン)の公のために生きた人生に魅了される何かがあるのかもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました