源頼朝の家系をたどると、新羅三郎義光(源義光)の名がみえる。新羅三郎とはどんな人物か。どうしてこの名がつけられたか。

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源義光について

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が放映され、源氏、平氏、北条氏の武士氏族に注目が集まれれている。日本人は鎌倉や室町よりも、戦国武将に愛着や親しみを持っているという。

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大河ドラマも鎌倉や室町よりも戦国時代を話題とすると視聴率が上がる。平安から鎌倉は意外と聞きなれない武将や貴族が多いのは確かだ。

頼朝、義経、清盛辺りは知っていても、それ以前の保元の乱や平治の乱の争乱時に出てくる、人物は一度や二度出てきても、覚えられない。

源氏は清和天皇からの臣籍降下した氏族だということくらいはわかるが、その後河内源氏から頼信から始まる、頼義とその子義家が陸奥で勢力を拡大したていた豪族阿部氏を打って滅ぼしたという。このあたりから、源氏が東国武士団と主従関係を結び、武家の棟梁としての地位を固めていったのである。

この義家の頼義の3男であり、義家の弟が、今回注目したい「義光」である。

なぜ注目したかというと、「鎌倉幕府」に注目が集まっている今日、源氏を知ることの必要性を感じるところからくる。

そして「新羅三郎義光」という名が目についたのである。

彼は「後三年の役」に参陣し、奥州の争乱を鎮めた。義光は弓術、馬術、礼法に優れていたともいう。その技術が武田家や小笠原家に伝授されたというのである。武田家、小笠原家は義光を祖先としている。

ちなみに兄の義家の元服名は八幡太郎義家である。八幡の神を拝むという意味である。では義光は新羅三郎との関係はどのようなものであったのか。

新羅三郎とは

新羅三郎とは新羅明神という守護神から来ている。この神はかれが元服した神社、大津三井寺の新羅善神堂という三井寺を指す。

言い伝えによると、園城寺の開山、智証大師円珍が唐から帰途、船の中に翁が現れ、

”私は新羅明神である、円珍のために仏法を守護すると誓った。”

現在はこの園城寺に新羅明神を祭り、この安置された像が国宝に指定されているのである。平安時代の作ともいわれる。

新羅明神は新羅の土俗神からそう名付けられている。

ではこの神をどうして義光が祭り、元服名としたのであろうか。源氏との関係はあるのだろうか。

この辺りは確かなものはない。源氏が新羅系と関係があるという話しもあるが、それを立証する確かなものはない。

元服名の背景

先に、兄の義家が元服名として八幡太郎とつけていたことを記した。八幡の神は全国に広がっている。頼朝は鶴ケ丘八幡宮を建立した。これはどこまでも

戦勝祈願

であるために作られ、祭られたことは確かだ。八幡の神は武士のよりどころとなっている。

この神がどのような性格を持っているのかは、はっきりはしないが、武士の信仰とつながりをもっていたことは確かではある。

そのように考えると、この義家や義光の生きた時代は、争乱の時代。末法の時代。あの有名な平家物語の時代である。

明日どのようになるかわからない自らの運命。この心境を救ってくれる神が八幡であり、また新羅三郎なのではなかっただろうか。

新羅三郎は戦勝の神としてあがめられていたかもしれない。単なる新羅という国を限定することよりも、その崇める内容に注目せねばならないだろう。

しかし、やはり、新羅という名がついていることは、新羅と切っても切れない何かがありそうだ。武士との関係からすると、一つ考えられるのは

新羅の武士集団の花郎(ファラン)である。ファラン精神ともいう。

いや、日本には固有の武士道があるのではないか、と言うかもしれないが、武士道も長い年月をかけて培われ磨かれてきた。突如として発生したとは考えられない。

そこで、その当時、武士集団が各地に台頭する中で、武士の心のよりどころを求めていたことは確かであろう。

義家は八幡の神に、そして義光は新羅明神に心のよりどころをもっていたのではないか。

源氏の祭祀対象は?

源氏と平氏。結局は源氏に軍配が上がる。源平合戦をみると、なぜか源氏に神がかりしている作戦をとるところがある。不可能なことを、やってのける。神風が吹くように、どこか神がかりなところがあったと思う。

それは、源氏という武家が信奉してきた神への祭り方や、その信念にあったと考えてもいいのではないか。八幡の神との関係もより深く調査していく必要があるだろう。

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