渤海(ぼっかい:발해)とは。渤海国の歴史を辿る。高句麗の末裔か、靺鞨族の一部か。渤海使は何を日本にもたらしたか。

高麗
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渤海。一度は聞いたことのある国。日本に渤海使が来たなどということ。

ただ情報量はそれほど多くはない。さらに、渤海の出自はどこなのか。これが不明瞭だ。

いままでわかっている渤海の領土は今の沿海州、遼東、松花江、ロシア領(ウラジオストック、ハバロフスク)までと、広大な領域をもっていた。地図で確認するとかなりの広さだ。

今なお韓国と中国はこの渤海をめぐって歴史観が対立している。高句麗の末裔だ、いや中国の一つの行政区域だった。一体渤海とはどんな国であったのか。非常に興味深い。

これは、一言でいうと、支配層は高句麗系統の流れを汲む氏族であり、大多数は高句麗移民と靺鞨族の多民族国家であった可能性が高い。この辺りが、非常にややこしくしている原因にもなっている。また靺鞨族とはどんな種族なのか。われわれは

このあたりのいわゆる満州で展開してきた民族への学びがすくない。

日本人はもっとこのあたりの事情を知るべきだと思う。

さて

韓国歴史ドラマ、「テ・ジョヨン」。漢字では大祚栄と書く。彼が建国の父である。ドラマがどれほど史実に基づいているかはわからないが、日本にも使節を派遣したということから考えて、ある程度の知識は必要なようだ。

まず記録からだが、

記録はそれほど多くはないが、旧唐書と新唐書の渤海伝は次のように記述されている。

•「渤海の靺鞨の建国者大祚栄(だいそえい)はもと高句麗の別種である。高句麗が既に滅亡してしまったので、大祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。」(『旧唐書』)

「渤海は、もとの粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)で、高句麗に付属していた。姓は大氏である。高句麗が滅亡すると、大氏はその民を引き連れて挹婁(ゆうろう)の東牟山を確保した。(『新唐書』)

短くまとめると、こうだ。

渤海の靺鞨の建国者大祚栄(だいそえい)はもと高句麗の別種である。渤海は、もとの粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)で、高句麗に付属していた。

この二つの記録が両国の歴史観の摩擦の原因ともいわれている。

この辺は非常に複雑な事情を抱えているようだ。

高句麗の滅亡

まず抑えなければならないのは、高句麗が668年に唐と新羅の連合軍に敗れたということからである。

そうすると、何が生じるか。

遺民、遺流民である。今でいえば、難民である。

遺民、遺流民である。今でいえば、難民である。

日本はもしかしたら、半島からの難民を多く抱えていた、とも考えれらる。特に高句麗や百済である。

半島に残った流民、高句麗の残党は唐に連れていかれて、一部の地域を割り当てられ蔑まされ、奴隷にもなったりと、非常に苦難を強いられることになる。

新羅とは犬猿の仲になったことはうかがえる。

流民は中には日本にも流れ着いたともいう。それが日本国内でも争ったとも考えられる。

新羅は唐と連合したのだが、

その時に領土が決められる。新羅の領土は大洞江という今の平壌あたりから以南ということになった。以北は唐のもの。高句麗はほとんど唐のものとなってしまっている。

つまり、高句麗の領土はまるごと、唐がもっていく形となったのである。

唐の末期になると、各地で暴動がおきる。高句麗の流民もその一部であったであろうか。契丹の暴動が大きく唐に影響するなかで、営州地方での乱を皮切りに、唐の流民もそこに加わる。

そして、乞乞仲象(きつきつちゅうしょう)という人物が立ち上がり、周辺の靺鞨族を従え、東に移動する。彼が渤海を建てたといわれる、大祚栄(テ・ジョヨン)の父である。

震(辰)国の建国

息子の大祚栄(テ・ジョヨン)は吉林省の東牟山(トンモサン)で震国(チンコク)という国を建国する。698年。これが渤海の建国である。

彼は高王(コワン)と名乗る。高は高句麗の末裔という意味が込められているようだ。

彼の活躍をみた唐も、高王を「左驍衛員大将軍・渤海郡王・忽汗州都督」と任命する。この渤海郡とすることから、

渤海という国

の名称が用いられることとなる。

唐においても、渤海とみとめつつ、旧唐書にはつぎのように渤海の様子を伝える。

「風俗は高句麗や契丹と同じで、文章をよく書き、書籍類が豊富である。」

このことから

渤海の学問の水準はかなりあったことが伺われる。日本にもそのような水準の高い学者が派遣されていたのであった。

武王(大武芸)の時代

二代目の武王においては(在位:719~737)に領土を拡大したり、周辺国に貿易を行う活発な外交を実行している。

なぜか。

それは、新羅をけん制するためであった。日本との交易もその一環で行われている。当初は政治的な交易だった。

最初に渤海使が来朝したのが、727年。聖武天皇のときだ。そこから926年まで数十回とわたる交易は続く。日本も遣渤海使をおくっている。日本は日本で渤海を通して唐の文化を吸収するためだ。

ここで注目されるのが、独自の元号、仁安という元号を用いていることである。独自の国家を意識していたことは間違いない。さらに

732年には唐(登州)を攻撃している。

しかし

第三代目の文王(大欽茂)の時代になると、唐からの文化を積極的に吸収している。

黒竜江省寧安県の東京(とうけい)城を中心に、長安をモデルにした都を建設した。また、靺鞨族もいくつかの部族があったのだが、それらをすべて支配下にいれることとなる。

1949年に貞恵公主墓(文王第二女)や1980年に貞孝公主墓(文王第四女)が発見された。ここにおいても大興・宝暦といった独自の年号を使用していたことが明らかになった。

さらに、石碑の文字から高句麗の継承をうかがわせる文字が発見されている。日本への遣使にも、彼らは「高句麗の末裔」であることを国書に記録している。

このような背景から韓国では渤海のアイデンティーを高句麗の求めていると判断されている。

海東の盛国

その後、5京・15府・62州を整備した渤海。5京は

上京(営州道)・ 中京(契丹道)・ 東京(日本道)・南京(新羅道)・ 西京(朝貢道)であり、

各国に朝貢道が整備されている。その中に日本道もあった。

9世紀初めに、このような発展ぶりを見た唐では

「海東の盛国」

と名付け称賛するのである。韓国ではこれを強調している。

しかし、10世紀にはいると、内部分裂がおこり、契丹からの攻撃も加わり、

渤海は滅亡する。その期間、たったの3日であった。あっけない滅亡を非常に不思議に思っている学者も多い。

もしかして、自然災害にあったのではという見解もある。

その後渤海に関する記録はない。ほとんど抹殺されたのだろうか。

朝鮮時代になって、1784年に柳得恭という実学者が『渤海考』という書を出す。『渤海考』が出るまでの800年の間、記録はないのであった。

渤海に関しては今後の研究に俟つところが多く、また韓国でも研究者は少ない。

日本にもたらしたもの

渤海の地は農業に適さない。非常に寒い地域だ。よって、日本との貿易から

生活品を得ようとしていたことがわかる。

絹、真綿、糸、椿油、金、銀 といったものが重宝された。

日本はどうか。

貂(テン)、虎、熊の毛皮、人参、蜂蜜、海産物、陶磁器、馬そして鉄であった。菅原道真が渤海使と詩を交換したことはよく知られている。

しかし、日本は渤海との交易の利益を見出すこともなく、徐々にその頻度はすくなくなった。さらに、渤海側からの国書に「日本を渤海をとする舅甥関係」とする、

ということから、日本側があまり快く思わなかった。ここから、両国の関係が遠ざかることとなったといわれる。

しかし、当時の日本からすると、馬(駿馬)などは、武士の登場とあいまって非常に重宝される文物であったことは間違いない。

また多くの国書のやりとりはみつかっている。

活発な交易はあったことが伺われるのである。

渤海は日本にとっては唐の文化を吸収するだけでなく、ある程度の友好関係が築かれていたと思われる。渤海が日本に与えた影響とは。

遣唐使と並ぶほどの影響力があったのかもしれない。

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