【日本の中の韓国】高麗神社、高麗川、高麗若光(じゃっこう)を訪ねる旅。高句麗の渡来人の功績と武蔵国の繁栄。各界の著名人が称え祀る神社。

日韓交流史
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今回日本訪問に際して最も気になっていたのが、武蔵野一帯の古代朝鮮半島からの渡来人が開拓した地域であった。その中でもよく知られている、「高麗神社」。話はよく聞いていたが、実際一度も足を踏み入れたことのなかった神社だ。

埼玉県、日高市にあるという。秩父までそれほど遠くない。都心からは電車で約一時間は要するだろうと予測した。この辺りは日高市であり、日高という地名の方が聞きなれているが、実際行ってみると、高麗という名残りが残されていた。

実際高麗を「こま」というのであるから、高句麗をさすこととなる。韓国では高麗は高麗時代のことをさすのではあるが。日本人には「こま」という言葉で定着したのであろう。

高麗川駅を降りる

高麗神社へ向かうルートはJRの高麗川駅から下りて、徒歩のコースと、西武線の高麗駅から降りて行くコースがあるようだったが、高麗川駅から徒歩で向かうこととした。

都心からは約1時間以内という近さもあり、都会からわずかのところに、自然豊かな場所があることが不思議でありがたかった。散策するにも適当なところかもしれない。

この辺りは武蔵野ともいい、けっこう古代の古墳などが発掘されている。以前は武蔵国といわれていた。ここに高麗人1799人を移住させ、高麗郡としたという。

その中でも若光(じゃっこう)という高句麗の貴族を長官に任命し、その未開の地を開拓させたのだった。その後、人々はその若光の功績を称え、徳を偲び霊を祀るために神社が創建されたという。

それが今回向かう、高麗神社である。

電車の中でそんなことを本やネットで調べていくうちに、広々とした岡や緑が見えて、徐々に自然豊かな景色へと変わっていった。そして、高麗川駅に着いた。降りる人も少なく、改札は小さい昭和のころそのままの駅の面影を残していた。どころなく異国に舞い込んだ気持ちであった。

駅の前にも韓国料理がある。そこに甕もおいてある。

地図をみると川を中心に市街がひらけている。その背後は山々がそびえていた。

高麗川を眺めて

さて、高麗川駅から高麗川方面をめがけてひたすら歩く。ここは日高市だ。街の中はスーパーなどがそろっていて、思ったより住みやすそうな印象を受けた。どんな人たちが生業をしてるんだろう。もしかしたら、渡来人の子孫?

そんなことを自分勝手に思いながら、広々とした景観とその後ろを囲むように山並みが迫ってきた。風光明媚なところだと思った。

今となっては県道を中心に車の数が多い。当時は未開の地であったはずだ。その名残もところどころ見え隠れする。

その一つが高麗川であった。流れも穏やかで、大地を潤しているということが伺われた。

高麗神社到着

そんな高麗川で一休みして、高麗川橋を渡る。赤く塗られた橋のデザインから、高句麗を思わせるものがある。この色は巾着田(きんちゃくだ)曼殊沙華(まんじゅしゃげ)の色からとったとか。巾着田というのは高麗川の蛇行により作られた形が巾着に似ているところから名付けられたもの。

ところどころにある、高麗神社の印。色も曼殊沙華の色か。

続日本紀では七国から高句麗人1799人をこの武蔵国に移住させたとある。

新羅と唐の連合軍によって高句麗が滅ぼされる。そんな故国を思いながら、この地を開拓していった。

彼らの思いにはせながら、短い橋をゆっくりと渡った。川の水は非常に透き通っていた。当時と同じ川を見ている自分が不思議であった。

辺りは広々として、解放感があった。牧場もある。高句麗は馬の飼育や騎馬に長けていた。その名残がここにもあるのだろうか。

そうこうしているうちに、高麗神社についた。駐車場がみえ、その奥が神社の境内だ。

すでに韓国にいるような気分になっていた。思ったより境内は人気はなくひっそりとしている。厳かだった。

鳥居をくぐると、歴代の著名人の名が記されていた。天皇両陛下を始め、総理大臣や政治家、文学者、歴史家の名が刻まれている。「出世明神」と称されるゆえんである。また若光の子孫の繁栄の由来からか、子孫繁栄や子授け祈願となっている。

それほどまでに若光をはじめとした渡来人の功績は大きかったのだろうか。

高麗家が神社の神職を代々つとめてきたという。その住宅が境内の裏にあった。建築は17世紀のもの(慶長年間)と推定されている。

境内はこじんまりとしていた。それでも、境内全体は非常に力強い印象だ。

弁当を食べ、境内のすぐとなりにある、聖天院(しょうでんいん)へと向かった。神社と寺院。まさに神仏習合というところだ。

聖天院(しょうでんいん)からみる眺め

ここは若光の菩提寺として創建された。創建は奈良時代の751年。古い山門が印象的だった。1832年に建てられたという。完成まで6年費やしたそうだ。

さらに進むと高麗王廟がみえていくる。ここは若光が鎮座しているもの。岩がいくつか積み上げられている多重塔である。

中門をくぐると、本堂がある。そこから高麗郡一帯を眺めることができた。武蔵野、そして高麗郡。人々はここに移住したとき、同じ景観を見ていただろうか。

そこからさらに進むと慰霊塔。そして高台がある。慰霊塔の周りに、韓国の偉人たちの石像が配置されている。檀君、広開土王など。

高麗王をはせる思いが伝わってくるそんな慰霊塔。故国を追われ、そして故郷が滅び、帰ることさえできない。そんな渡来人たちの思いをはせながら、

この地を豊かな実りのある地へと開拓していった人々。

その後、高麗神社は出世の神様となった。

人の命は限られているが、その精神や志は後代に引き継がれている。

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