『古事記』を読んでいてい思うことがあった。
それは、朝鮮半島の記事が少ないということだ。
『日本書紀』に比べてである。その『日本書紀』は
仲哀天皇そして応神天皇以降から、急激に朝鮮半島の国々
百済、新羅、加羅の記事が多くなる。当時倭の立場は非常に重要だったのかもしれない。
その中でも『古事記』にあり『日本書紀』にみえる朝鮮半島の記事は
神功皇后の新羅遠征である。三韓征伐ともいわれる。
神功皇后の神がかり
神功皇后。聞いたことはあるが、一昔前。明治においては、初めてのお札の肖像紙幣となった。それだけ、注目される歴史上?の人物ではなかったかと思う。
彼女は仲哀天皇の后。その仲哀天皇はすぐに死んでしまう。よって
彼女のクローズアップされるのである。皇后は神がかりをするシャーマン的な存在だ。
当初朝廷に従わない熊襲を討つはずであった。しかし、神は皇后に現れて、西の国、黄金と宝の国へ出兵せよと命ずる。
夫の仲哀天皇はそのお告げを信じず、亡くなってしまう。のち天皇の不在を皇后が出兵の指揮をとるのである。そして新羅に出陣。しかし、皇后はすでにお腹に子を宿していた。
それが、15代の応神天皇である。その出産を送らせてまで、神のお告げを全うするようにする。
新羅遠征
船は大小の魚たちによって先導されていく。風も味方する。波も順風だ。すうぐに新羅の国に押し寄せた。すでに国の真ん中に来てしまっていた。
新羅の王は大いに恐れて、
”これからは、天皇のご意思のままに、馬飼として毎年多くの貢ぎ物をささげます。そして天皇におつかいいたします。”
と述べたという。
その侵攻後、もっていた杖を、新羅の国王の宮殿の門に突き刺して、
住吉の大神の荒魂(あらみたま)を祭って帰国したのであった。
この記事に接すると、いかにも自国中心のフィクションのように感じるだろう。実際こんなことがあったのだろうか。
しかし、文字一字一句がすべて史実でなかったとしても、史実を反映していることは確かかもしれない。
それは、『三国史記』や『三国遺事』に倭の侵攻の記録が多数のっているのである。
類似した『三国史記』の記事
『日本書紀』にはこののちさらに新羅からの人質の名前や新羅王の名前が記載されている。
人質の名前は「微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)」という名。
実は『三国史記』や『三国遺事』にも人質を日本に送る話がある。そしてその名前は
奈勿王の子の未斯欣みしきん(『三国史記』) 美海、未叱喜(『三国遺事』)人質。となっている。
「微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)」の日本語表記で「微叱己知みしこち」である。非常に近似している。
最終的には宰相である朴堤上(パク・ジェサン)が日本に行って人質を救出する。その後、彼は死刑となると記されている。
また、新羅の王が降伏するのであるが、
『日本書紀』には宇留助富利智干(うるそほりちか)という王の名が載っている。
『三国史記』には干老(うろう)という人物。この干老(うろう)に該当するのが、宇留という漢字。では助富利智干とはなにか。
そふるちかんは漢字で「舒弗耶」。これはは新羅十七等官位の意味である。舒弗耶はspurkanとなり、干老(うろう)舒弗耶(そほりちか)と日本名が浮き彫りになる。
また、訖解尼師今(きつかいにしきん)という王の記事には以下の内容が載っている。倭は新羅と国交を断絶するとも記されている。
倭軍が新羅に侵攻した様子も、神功皇后の記事に非常に似通っている。
•倭国に使者を派遣して、王子の花嫁を求めてきたので、急利の娘を(王子の花嫁として)倭国に送った。(312年) •倭国が使者を派遣して、花嫁を求めてきたが、娘はすでに嫁にいったとして自体した。(344年) •国交を断絶(345年) •倭軍が突然風島を襲い、辺境地帯を掠め犯した。倭軍はさらに進んで金城を包囲し、激しく攻めた。(346年)
倭と新羅
神功皇后が実在の人物かどうかはさておき、
この新羅と倭との関係、倭から新羅への度重なる侵攻、人質の記事などは、見過ごせないものである。
すべてが、史実とはいかなくても、これほど倭と新羅との交戦があったという記事から、記紀においても、神功皇后の出征の記事は大きく論じらなければならなかったのではないであろうか。
伝承として伝えられてきたものであり、それをさらに英雄伝のように作りあげていく。
いやそうでもしなけらば、国際関係の中で有利に進めることができなかったのかもしれない。
我々は「神功皇后」をもっと知らなければならないと思う。
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