歌手ボア(BOA)の軌跡とK-POP韓流への開拓

歴史・史蹟
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1.ボアの日本デビュー

韓国、日本、そしてアメリカと活躍する歌手ボア。日本でもボアを知らない人はいないほど日本にその名を定着させている。

ボアはオーディションを受ける兄についてSMエンターテイメントに行ったことがきっかけでスカウトされた。その後、海外進出を目指して、歌やダンスの厳しいレッスンをうけるようになる。

13歳の若さで日本に単身で来日する。2000年に彼女は日本デビューをする。このころはK-POPで活躍している歌手並びにグループはいなかった。

BoA THE LIVE 2018 “X’mas”(スマプラ対応) [ BoA ]

2.苦労した日本での生活

彼女はグループではなくソロである。一人日本の地で孤独と闘わなければならなかった。その当時は通訳はいたが、生活や活動などはほとんど一人でこなさなければならない状況であったという。

特にテレビ番組などにでても、周りの人が何を言っているのか理解できなかった。日本には方言もあり、関西弁は聞き取れずストレスを受けたようである。

また、本人の口からは出てはいないが、頭をたたかれることなどは、日本では普通であるが、韓国ではそうめったに頭をたたくことはない。それがとても当初は衝撃ではなかったのではないだろうか。

最近の日本に進出している歌手なども同じように頭をたたかれることがあると、それは愛情表現だよとアドバイスしているという。

ボアは誰からもアドバイスをもらったり、共有してくれる人はいなかったのではないだろうか。

さらに、追い打ちをかけて、3枚出したシングルもチャート20位と日の目をみないのであった。それは、あまりにも若い14歳の彼女にはとても大きなプレッシャーとなったのである。結局ボアは韓国に帰ることになるのである。

もちろん、中学に通えなかったこともあり、高校の検定試験を受験するための準備もあって、猛勉強したという。

3.日本での成功

さて、日本での生活の孤独さを表している彼女の言葉がこれである。

日本語を碌に話せず、本音を話す相手もいない。悩みを相談する人もいない。部屋の中で一人、韓国の友達に会いたいよと壁に話しかけて泣いた。

ボアの活躍だけを知っていて、また最近のK-POPグループの華々しさだけを見ていたら、ここまで精神的に追い詰められていたのかと思うほどである。

また、ボアの印象はとてもたくましく、常におおらかな性格に見えてしまい、意外な側面が明かされ簡単ではなかったデビュー当時であることを知らされるのである。韓国の芸能人は一見たくましく、おおらかに見えても、プライベートなでは孤独と闘っている人は多いのではないだろうか。

しかし、これも持って生まれたものなのか。韓国に帰国していた次の年4枚目のシングル「LISTEN TO MY HEART」がヒットし、再度日本へ来日することになり、次のシングル「VALENTI」で大ヒットするのである。

彼女が乗り越えることのできた、もう一つの要因が日本の歌手であった。それが宇多田ヒカル。宇多田ヒカルの「time will tell」を聞いたことがきっかけだったという。この曲の歌詞にもあるように、時が解決してくれる、目の前のことを積み重ねていけば、必ず結果は生まれる。と思い、前向きに再度出発できたのである。

2002年には紅白に出場し6年連続で紅白に出場している。2008年には全米デビューを果たした。

4.ボアへの憧れ

ボアが経験したことを振り返ると、日本での成功は簡単ではなかったことがうかがわれる。特に言葉の壁と文化の壁は想像以上であったことがわかる。

歌手や芸能人が異国の地で活躍していくにはそんな歌やダンス以外のプレッシャーと闘わなければならない。

海外生活の難しさ。

最近海外デビューをする歌手やグループが多くなっている。

しかし、その裏で戦わはなければならないのが、言葉と文化の差であり、若ければ若いほどそのプレッシャーはたいへんなものなのではないだろうか。

ボアに憧れ手デビューするガールグループのメンバーは多い。

ボアがたどった軌跡は、このK-POPグループの先駆者となっているように思えてならない。このボアの軌跡があったがゆえに、日本へ多くの韓国スターが受け入れられ、かつ人気を博すことができるようになったと思う。

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