秦氏とは何か。これは古代日本において集団的に移住してきた氏族を指す。読み方は“はたし”である。秦という字を“はた”と読ませている。私はこの読み方から考えても、彼らが単なる、難民として日本に渡ってきた集団ではなく、技術系の集団であったのではと考えたい。
“はた”を様々に解釈している研究者は多い。地名説、語源説などであるが、はたは機織りというときのはたであると思うのある。
1.秦氏の出自は中央アジア
彼らの記録として一番わかりやすいものは、二つである。
一つは、「日本書紀」の応神天皇十四年に百済から弓月君が来朝し、百二十県が帰化しようとしている。しかし、新羅人がそれを妨害していて加羅国にとどまっている」という内容である。
もう一つはそれに関連して、「新選姓氏録」では仲哀天皇の時に功満王が来朝し、応神天皇十四年に融通王が百二十七県の百姓を率いて帰化した。という内容である。
彼らは自らの出自を秦の始皇帝の後裔と称している。それが、史実化どうかは、はっきりはしないが、「三国志」の記録によれば、秦の苦役に耐えることができずに、その苦役を避けるために韓国に逃れた。そして、馬韓の地を与えたと記されている。
この当時、韓半島には三韓つまり辰韓、馬韓、弁韓があった。この辰韓は秦韓ともいい、楽浪方面から南下した遺留民によって形成されたとされている。
2.韓半島での経路と辰韓
この秦氏の集団の経路は韓半島を抜きには考えられない。特に、弁韓や辰韓との関連は深いのではないだろうか。その三韓 ⁽辰韓、馬韓、弁韓⁾ 時代の後、三国時代つまり高句麗、新羅、百済の三国の戦乱が400年前後を境に海を渡ってくる。これが、秦氏の伝承として伝えられるようになる。
平野邦雄氏は<秦>の字と古代三韓の中の辰⁽秦⁾韓から考えて、三韓の辰韓から渡来したのではないかと指摘する。
「三国志」や「後漢書」においても辰韓について記録されるところがある。その中でいくつか注目する点を挙げたい。
1.秦の人々と似ていて、言語も秦の人。この秦という言葉の意味は、単なる中国を指すのではなく、中国からみて西域を指す人のことである。西域の人々と似ているということで解される。
2.養蚕の技術を備えていて、絹織りの技術があると伝えている。ここにおいて、彼らの技術の中で機織りの技術があったことがわかる。
3.鉄の文化にすぐれ、鉄の貿易をしている。
もし、辰韓と秦氏の関係があることが許されるのなら、秦氏のアイデンティティーは上記の三つを考慮することができる。
その中で、養蚕の技術に注目してみたい。
3.日本への貢献。養蚕とシルクの技術。
秦氏が仁徳天皇に絹と綿を進呈したのであるが、それが皮膚のように柔らかいので、“はた”という姓を与えたと「新選姓氏録」はその名前の由来を伝えている。
ここにおいて機織りの“はた”という読みはこの絹や綿のはだのようにやわらかいところからきたのではないかと思われるのである。
つまり、秦氏はこのような蚕を育て、シルクをもとに洋服をつくる技術をもっていたがゆえに、はたしと名付けられたと推測される。
中央アジアといえば、シルクの道が思い起こされる。彼らの正体性が 「三国志」や「後漢書」 の記録のように西域を出自としているのなら、シルクとの関係から解明されることは妥当であると考える。
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