韓国ドラマの中で歴史ドラマの人気は最近特に際立っています。どうしてでしょうか。
実際の史実もドラマのような展開が繰り広げられているからです。
史実が実際のものかどうかは、明確ではないですが、朝鮮は『実録』という、
王の在位中に日記のように記録されている王様の生活が
事細かに書かれているというのが、ある程度真実を伝えている根拠となりえます。
朝鮮は特にこの記録がすごいのです。
今回の朝鮮王の9代王(イムクン)成宗(ソンジョン)の時代もまさに
記録の編纂の時代!
文化の隆盛の時代といっていいほど、編纂が盛んにおこなわれました。
これは、成宗が人材を広く求めたからであると考えられます。
それが、士林派の登場です。
では成宗はどのような時代であったのでしょうか。見てみましょう。
12歳で即位
成宗は父で7代王の世祖の長男ウィギョン世子が19歳という若さで夭折するので、その後継者として12歳で即位します。1469年です。このころ日本は室町幕府の時代で、応仁の乱が1467年に起っています。
12歳の若さで即位したため、摂政として貞熹(ジョンヒ)王后が王を補佐していきます。これを韓国語で垂簾聴政(スリョンチョンジョン)といいます。つまり
簾の奥から王を補佐、操るというものです。
また院相制度といって元老による後押しを行い、貞熹王后の影響力は大きくなるのです。
その影響力を弱めるために使った手段が
士林派の起用であったわけです。
今までは勲旧派という派閥が牛耳っていたのです。
その後この二つの派が党派争いになっていくのですが。
編纂事業
さて、成宗王の大きな功績としては4つの編纂事業の完成があげられます。
1)『経国大典』:これは朝鮮の法典で、憲法のようなものです。祭祀のやり方、方法、冠婚葬祭の取り決め、刑罰に関するもの、国の財政、税などのものが細かに整理されて決められています。
2)『東國輿地勝覽』これは韓国全土の地図。半島を6道に分けて記されているもので、現在両国で問題になっているウルン島やウサン島も描かれています。
3)『東国通鑑』これは歴史書で古代の神話から箕子朝鮮、衛満朝鮮そして三国(百済、高句麗、新羅)、高麗までの歴史が編纂されています。
4)『楽学軌範』時の通り楽譜の説明が記されているものです。音楽に対する教養も備えることが、要求されていたのでしょうか。儒学が単なる理論ではなく、芸術への傾倒と進んでいったと思われます。
このような編纂事業からうかがわれるのは、記録に対する執念みたいなものを感じます。朝鮮王朝実録もそうですが、いかに記録として残す。
印刷技術が進み、学問、文化も定着する中で、人々は記録を残そうという意識が高まったと見えます。また、そいういった技術者が尊ばれる時代、
これが朝鮮時代であったのでしょう。
記録がしっかりできる人が、出世する、または、そしなければ、社会の中で生きてこれない時代でもあったのでしょうか。
その根幹になっているのが、「儒教思想」であったことは間違いないでしょう。
儒学中心社会
儒学を促進するために、まず仏教を退けました。寺院は閉鎖されました。
そして、人材育成のために、学校が設けられたり、中でも弘文館を設置することで、優秀な学者を育成したともいわれます。
さらに面白いのは、読書をさせる有給休暇をあたえる、「賜暇読書」という湖堂制度を設けたことです。今でいう、大学教授の研究の年に1年ほどの休暇を与えるようなものでしょう。
徳川時代と同じように、儒学を国の中心に添えることで、太平の世にしていくことが、成宗王の時代であるといえます。
晩年
晩年は社会の退廃風潮がはびこり、成宗王も遊興にはまっていったといいます。
その中で側室をたくさんかかえ、そこから大きな事件が起こります。
正室であた恭恵王妃韓氏が亡くなり、きれいだった斉献王妃(廃妃尹氏)が王から愛されます。
彼女は嫉妬深く、王が他の王妃と仲良くしていると我慢できなくなる性格でした。
そしてあるとき、彼女は王の顔を爪でひっかいてしまう。
それを見た母親である仁粋(インス)大妃が激怒して、彼女を追放してしまう。さらには毒薬を与えて殺してしまうのです。
斉献王妃(廃妃尹氏)には子供がいました。それが次の王である燕山君(ヨンサングン)であり、即位後に暴君となって粛清の政治を行うのです。
成宗王は名君とよばれることもあますが、賛否両論のところがあるそうです。
このころの時代もドラマの背景になりやすいものですね。
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