任那(みまな:임나)について考える。日韓の古代史の争点。韓半島の前方後円墳は何を示すのか。任那とはどこに、何を、そしてどんな役割をしたのか。交易、軍事的支援、在地豪族についての考察。

日本の中の韓国
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任那とは何か。今だに日韓の古代史研究では争点となっている事項である。

日本書紀に登場するが、それが何なのか。明確にはされていない。推定では、朝鮮半島の南部、加羅(伽耶)となっている。日本と韓国の古代史を考える上で避けては通れないのが、この「任那(みまな)」問題であろう。戦後多くの話題をよんだのが、韓半島南部特に、ヨンサンガン区域での前方後円墳の発掘でななかっただろうか。他にも様々な考古学的な資料や文物が発見されてきたが、日本特有であるとされる韓半島南部の前方後円墳は非常に興味深いものである。

日本と韓国は古代から交流が盛んであったことは確かではないであろうか。交流にも色々な次元があるが、まず考えていいのは

1)交易 次に 2)軍事的支援 そして3)単純な行き来(政治的目的がないもの) 

この三つをもとに任那をひも解いてみたい。

交易

朝鮮半島南部。特に全羅南道のヨンサンガン地域はこのヨンサンガン(栄山江)という川と海から、交易が活発に行われていたことが読み取れる。ここは、倭(倭が何なのかについても議論があるが、とりあえず、日本を指すと考えることにする。)が朝鮮半島に進出する上で非常に良好な場所であったと思われる。

その理由の一つに、

百済の存在がある。

百済と接近するためには、ここにある程度在地できる場所があることが前提である。そして

百済も高句麗の南下によってウンジン(熊津)に都を移しながら、南下しなければならかった。そうすると、「倭」とも交易ができることは非常に百済を有利に運ぶことができる。

これは百済と倭のウィンウィン(WIN WIN)の関係となっているといえる。

任那というと、加羅やその諸国を考えやすいが、百済との関係が大きく比重を占めている。

日本書紀は百済本記に基づいていることは強調していいと思う。

さらに、中国の「南朝」である。

百済の文化はこの南朝の影響を受けている。

倭としても南朝の文化を受け入れたいという思惑がある。あの石上神宮の七支刀は南朝の複製品であるともいわれる。百済はその複製品を倭王のわめに下賜したか、同等の立場で連盟を結んだか。

百済と倭はこの南朝の文化を受け入れるためにも、地域的なところで、栄山江(ヨンサンガン)の流域はもってのほか重要であった。

そこから、前方後円墳が見つかるのは、倭の影響力があったことをうかがわせる。そして、埋葬品に倭のものが出てくるのも、

交易の中心地であったのではないかと思われる。

倭は何を受け入れたか。「鉄」や「須恵器」のような製鉄や土器の技術だと思われる。ここは海上交通の要所であったのであろう。

軍事的支援

次に軍事的支援。

これが一番現実的な解釈ではないか。

つまり、5~6世紀の半島の熾烈な覇権争いの中で、伽耶連合や百済はどこに支援やバックアップを求めたか。

いうまでもない。「倭」か列島の各地の豪族。これを味方にいれるか、連絡をとる方法だ。

このことを理解するには「倭」や「倭人」について考察しなけらばならいだろう。

倭と読んでいるところからして、まとまった政権というより、在地の豪族や列島の各地にいた豪族と考えてはどうだろうか。大王(おおきみ)は存在はするが、まだ地方豪族をまとまりきれていない。そんな状況だったと推定する。

彼らは、半島への直接的なかかわりあいをもつというより、仲裁役や外交使節の役割ももっていた。軍事的な支援をするが、大がかりではなかった。

それが、日本書紀に記されている、「任那復興会議」であったり、「在安羅諸倭臣」という記述である。大がかりの軍隊というより、

在地の倭人、そこに定住する倭人といってもいいかもしれない。そんな倭人が集団で伽耶諸国に加担しつつ、百済とも連絡をとっていた。

そして「任那日本府」という記述にも表れてくる。日本府とは何か。「府」という漢字から組織を想起しやすいが、’やまとのみこともち’という記述から人あるいわ集団と考えていいのではないか。

また、この地域に住むということは、それほど、国を超えたという意識。今でいる、外国に移住したという意識はなかったともいえる。

この韓半島の南部と北九などの列島の南部あるいは日本海側は往来が多く、移住という感覚はうすかったのではないか。

加羅(伽耶)が滅亡するということは、自分たちの所有地も失われる。そう思っていたに違いない。

民間(在地豪族)の行き来

最後に、貿易や政治軍事的な交流を抜きにした、単なる行き来を考えたい。

お互いに利益がっての交流や貿易と考えたいが、それ以外にも、相互の利益(ビジネス感覚)のない、単なる行き来が、任那という地域を生む背景になったという考え方である。

任那という名は日本書紀が編纂されたときに作られたものである。実際に存在したかはわからない。

任那という国を作り出さざるを得ない、書記の編者の事情や百済本記の事情があったともいえる。

とにかく、もしこの政治的な目的などないとしたら、たんなる海を介しての往来ということも考慮できないだろうか。

このヨンサンガン流域と九州との交流は4~6世紀にはじまったのものではない。新石器、弥生時代からすでに始まっていたとも推測されている。

日本の糸魚川のヒスイが発掘されていることもその一因であった。もしからしら、縄文からすでに交易や往来は頻繁にあったのではないだろうか。

さらに、半島の人々が倭の在地豪族や官吏となることも考えられる。先祖や自らの故郷を神聖視し、故郷が敵から守られ、無事を祈る。

王権が確立する前の世界を考えながら、この「任那」を捉えることも必要であろう。任那をMIMANAというが、どこか韓国語に聞こえてしまう。イムのナラ ~さまの国であろうか。~さまとはだれか興味がつきない。

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