朝鮮の陶工と焼き物その1:陶工の神として祀られる李参平(リサンペイ)を知る。

日本の中の韓国
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日本を代表する焼き物、陶磁器。有田焼。

世界に伊万里として知られている日本を代表する陶磁器。

有田の始まりは、あの朝鮮出兵で日本に連れてこられた陶工の一人、金ケ江三兵衛(かながえさんべえ)が、有田の地で白磁鉱を発見したことによる。

金ケ江三兵衛(かながえさんべえ)は日本名で、朝鮮での本名は不明だ。その後、李参平と名付けられるのであるが、彼のふるさとは朝鮮である。

現在学説では現在の忠清南道の公州となっている。そこにも1917年石碑がたてられた。

彼の業績をもとに、1658年に陶山神社がたてられそこに陶工神として祀られれるのである。

いわゆる彼は

伊万里の生みの親であり、陶祖なのである。

有田焼や伊万里焼は知っていても、生みの親として陶祖いわゆる神として祀られることは意外と知られていない。

彼はどのようにして、日本の地、肥前に渡ったのであろうか。非常に興味深いところではある。

実は彼の家門の書(『金ケ江家の文書』)というものが残っている。これは李参平が直接書いたのかどうかは不明だ。明らかなのは彼から3代目の方が書き残したという。

そこには、肥前国の領主であった鍋島直茂によって連れてこられる。いきさつは、鍋島が朝鮮出兵で朝鮮の戦火の中、道に迷う。そのときに道を案内した一人が、李参平であった。その道案内によって、鍋島の軍は大勝利をしたのである。

鍋島は彼にこのままでは、日本に味方したことと誤解され、みつかったらたいへんなことになるかもしれないから、一緒に日本に行って陶磁器を作らないかと誘ったという。

日本に渡った後、鍋島の重臣である多久安順(たくやすとし:1566~1641)にやっかいとなり、そこで窯を開く。その焼き物が多久古唐津であった。

遺跡から推測すると、これは当時の朝鮮で流行した粉青沙器(プンチョンサギ)に酷似している。さらにこれが唐津三島へとつながっていく。

三島ということばも、朝鮮の地名ではないかといわれている。

さて彼はここで十年余りを過ごすのであるが、焼き物に満足できず、その原料を探しに歩き回る。そしてついに高麗の土と酷似した鉱山をさがしだすのだ。それが

泉山の白磁鉱だ

ここから彼は本来の磁器生産にとりかかる。

1616年白川で天狗谷窯を作る。その噂を聞いて多くの朝鮮の陶工たちが各地から集まる

実は、日本のやきものの技術では朝鮮の陶磁器を作ることができなかった。

その一つに、窯の構造が挙げれれる。朝鮮の窯は登り窯で、1300度以上の熱を出すことができた。それによって、ひび割れのない、薄くて丈夫な磁器ができたのだ。

次に、原料であるが高麗土といわれる、焼き物に適したものがないといわれてきた。しかし、この李参平の白磁鉱の発見から、それにみあった原料を用いることができるようになった。日本では原料となるものがあったにもかかわらず、それを判別することはできなかったのであろう。

彼が亡くなったのは77歳であった。日本で焼き物を始めたのが20代といわれ、有田で窯を開いたのは30代といわれるので、長い間この有田の地で、焼き物を作り教え、そしてなによりも肥前国の藩の経済を潤したことは間違いない。

1651年からオランダの東インド会社が貿易を始める。1653年には2200個がヨーロッパに売られ、1664年には4万4000個の陶磁器が売られていくのである。

陶磁器の旅はつづく。

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