韓国歴史ドラマの背景としてよく登場する時代。仁祖についてみてみましょう。
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1623年西人派は15代王の光海君(クァンヘグン)を廃位し、宣祖の5男の息子である、綾陽君(ヌンヤングン)を王に即位させた。仁祖反正(インジョパンジョン)である。反正は政治を正しくするという意味がある。西人派が起こした乱として、西人の乱ともいう。
この西人派は民を宗主国として敬い、そのころ力をつけてきた北方の民族・後金を蛮族として扱っていた。そんなころ北方では警備の重要性が説かれ、
仁祖反正で活躍して功労を立てた、李适(イ・グァル)が北方の警備の責任者として任命された。しかし、功労を立てたにも関わらず、褒賞が見合ったものでないという不満もあり、
その不満を謀反を超すという内容にすり替えて、中央政府に密告された。そこで、李适(イ・グァル)を警戒する動きが起こり、結局中央に対して反乱を起こす。
そして、王はどうしたか。王宮を置いて、忠清南道の光州へと非難してしまった。その後も、仁祖は2回にわたる後金の侵攻で避難をするのであるが、この反乱によって最初の避難をしたということになる。
後金の侵略
その後、後金は朝鮮に兄弟の盟約を結ばせようと再三、朝鮮に迫ってくるのであるが、西人派は明の機嫌ばかりをうかがっている。それを見た、ヌルハチの後を継いだホンタイジは3万の兵でソウルに侵攻してくる。
そして王はどうしたか。民衆を置いて、江華島に避難してしまうのである。これが、二度目の避難ということとなる。
結局和議がもたらされ、兄弟の盟約を結ぶこととなる。これを、丁卯胡乱(チョンミョホラン)と呼ぶ。
後金は徐々にその勢力を拡大し、遼西地方まで版図を広げ、ホンタイジは皇帝を名乗り、朝鮮には「君臣の関係」を要求してくる。
このとき、中央では主和論と主戦論が激突する。結局名分論を優先し、戦争の道を選ぶこととなる。
1636年1月に10万の兵で侵攻してきた。たったの5日でソウルに到達する勢いを見せた後金(清)軍に対して、王は以前のように江華島に逃げることはできず、
現在の京畿道、城南市にある南漢山(ナマンサンソン)へと非難する。その時兵は14,000で50日分の食糧しかなかった。
屈辱的な事件
結局持ちこたえることができず、1637年清軍の本営地である、漢江のほとり(現在のソンパ区)でホンタイジが天子であることを認める儀式をさせられる。これが
三跪九叩頭の礼という。
つまり、三度跪き、そのたびに三回皇帝に礼をする。合計9回である。その礼も頭を地面にたたきつけて音が出るほどを強制させられたのである。
王の額からは血が滲みでるほどだったという。
このときから、朝鮮は近代まで清の冊封国となる。
世子の捕虜
さらに、50万の捕虜が連行され、満州に居住させられたり、女性は奴隷となったともいわれる。そして、
世子であった昭顕(ソヒョン)は人質となり、弟と共に皇帝に仕えることとなる。しかしその後、彼は瀋陽において多くの先進の文化と西洋の科学技術を学ぶこととなる。
また、朝鮮との外交菅として大使館で任務を全うするという能力を発揮した。
1645年ようやく帰国を許された昭顕世子は父との再開を心待ちにしていた。が
父である仁祖は待遇を冷たくした。
その一つに、息子が清にいる間に西洋にかぶれたということ
さらに、息子が清で目覚ましい活躍をしていたことに
嫉妬を覚えたというのである。
帰国の二年後、昭顕世子は不思議にも亡くなる。体は黒ずんで光っていたという。尋常な様子ではなかった。記録では麻薬中毒だったということとなっているが、
実際は毒殺が疑われている。
1649年に仁祖は55歳でこの世を去る。
近代への道
昭顕世子が学んだ西洋の先進技術や思想は、結局仁祖は認めることはなかった。もし、これを契機に西洋文明を受容していれば、その後の朝鮮の歴史も変わっていたかもしれない。
さらに昭顕世子が王に即位していたらどうなっていただろうか。
17代王には彼の弟である孝宗が即位する。
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