【三国遺事】の中に新羅の17代王の奈勿王の条がある。韓国語ではナムル王といい、356年から402年という在位期間である。あの空白の4世紀での出来事か。
この王の時代に新羅は百済との軋轢から国際関係を優位にすすめようと、人質を他国に送ることとなる。
その一人は高句麗に。もう一人は倭国にである。高句麗に送られた王子は「宝海(ぽへ)」という。倭国には「美海(みへ)」という王子が送られる。
この当時の人質のやり取りは頻繁であったようで、それが、国際関係を優位に進めるために、交渉術でもあったようだ。今でいう人質とは異なる。
人質と外交
人質が送られる。
その後、17代王として在位する訥祗王(ヌルジワン)がたつ。彼は奈勿王(ナムルワン)の子であった。
訥祗王(ヌルジワン)にとっては、外国に住んでいる人質は、兄弟である。
そして、奈勿王(ナムルワン)の子供である訥祗王(ヌルジワン)には、その人質として
送られたことへの「悲しさ」をよく知っていた。
だから、どうしても、王の祭祀(命日)には人質になった子供を送り返すことで、親孝行したいとう思いがあった。しかし、
人質を返すことは簡単なことではなかった。
そして、倭や高句麗に渡ってから、月日も30年ほどたっていたのだ。
父への孝行
そんな王の悲しみを聞いていた、ある臣下が、救出を名乗り出た。
彼の名は「キム・ジェサン」(金堤上)である。
王が悲しんでいることは、臣下にとっては死ぬことと同然だ。と申し出る。
そして彼はまっさきに高句麗へと旅立つ。
高句麗には「宝海(ぽへ)」がいた。
宝海(ぽへ)を救うために策を練り、スキをみて逃げ出す。
実際には高句麗では宝海(ぽへ)を逃がしてやったという。それは、宝海(ぽへ)が高句麗で生活しながら、非常に模範的な生活そして人々に尽くしていたことから、
高句麗の人々はわざと皇子を逃がすこととなったという。
臣下の忠誠
新羅に到着して、何十年ぶりの再会を果たした。しかし
まだ、もう一人の兄弟である美海(みへ)は倭国にいる。
もう一人の王子が救われない限り、訥祗王(ヌルジワン)の心は晴れない。
その姿をみた、キム・ジェサンは倭国へ向かうことを申し出る。
今度は高句麗のときよりも、命をかけなければならないかもしれない。
彼は知恵を使って、倭国へ渡る。それは、新羅で家族が虐げられたということにして、
倭国の王に近づくのであった。倭国の王はそれを信じ、すっかりジェサンを倭国王の臣下になるとばかり思っていた。
そして、ジェサンを信じていた。
ようやく美海(みへ)と再会する。美海(みへ)と一緒に魚を釣りながら、それを倭国の王に捧げる。
そんな行為から彼らを信頼するようになった。
そのすきをみて、ジェサンは美海(みへ)を船に乗せて新羅に送ってしまう。自らは倭国に残って。
その後、ジェサンは倭国王に問い詰められる。
”あなたは、倭国の臣下でるか”と
ジェサンは
”私は倭国の王の臣下ではありません。新羅の王の臣下です”と
”豚や犬のような扱いを受けても、新羅の臣下になるでしょう”
そんな言葉で断固として自らの立場を曲げなかった。
倭国の王はもし倭国王の臣下を否定するなら、思い刑罰を科すと云いつけた。
それでも、ジェサンは最後まで新羅の王の臣下であることを言い続けていた。
そして、重い刑罰が科される。皮をはがされ、槍の上に寝かされられ、最後には熱い鉄板の上に置かれ、焼き殺されるのであった。
夫への思慕
実は彼には妻がいた。そして娘がいた。
倭国にジェサンが行くときも、船にのるジェサンを見送った。
そして、何日も何日も夫が来るのを待っていた。
倭国が見える山に登って、何日もそこから倭国を眺めていた。
そこには今も祠堂があるという。
彼女は国の大きな夫人、「国大夫人」としての地位を与えれ、娘は人質から解放されたミヘの后となったという。
ミヘは三国史記では未斯欣(みしきん)として記述され、『日本書紀』には微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)という名前で記されている。
この物語が史実かどうかはともかく、三つの徳目を示している。親孝行、忠誠、そして夫への思慕であろう。
韓国の社会に今も見れる徳目は、新羅の時代にも美徳として貴ばれていたようである。
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