韓国と言えば、試験(受験)戦争が有名ですね。
大学入学や資格、入社に韓国の若者は死に物狂いで勉強に励むと。
実際はそこまで激しくはないようい思ったりします。
もしかしたら、日本の方が小学校から始まって高校まで勉強づくめのような気もします。
さて、今日は時代は遡りますが、高麗の受験戦争のこと。
それが、「科挙」!
中国の帰化人が紹介して、光宗(3代王)のときに、導入をした。
しかし、その当時の世襲制度に阻まれて、実際には官吏の子弟などが、高位高官についていたとのこと。
ではいつ頃から、この「科挙」が実施されたのか。
それが
短命ではあったが、名君と評価される徳宗(トクジョン:1016年~1034)という王様。
このときは
あの契丹の侵攻から国を立て直す機運が盛り上がっていた時期。
徳宗は16歳で即位。
それでも、国の内外を立て直すために、色々な手段を用いるのです。
その最も業績が「科挙」の大胆な実施だと思われます。反対も多かったのではと予想しますね。
科挙を知る
そこで一口に高位高官選抜の試験といっても、これが今では比較にならないほど、
ハードな試験。
3年に1度しか受験できなったのも、そんな試験の難しさが伺えます。
最初は地方の試験から始まる。
それを
郷試(ヒャンシ)という、そこで、まず選抜されなければならない。
それが通ったら、「界首官試」という試験。
これも、地方での試験で、本試験ではないのです。
それに合格して初めて、ソウル(その当時は開京ケギョン)へ入ることができるのです。
その首都ケギョンでは、国子監(クッチャクァン)という大学の教育機関で、受験をします。
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そこに受かると、予備校生となる。まだ、本試験は受けることができないのです。
ちなみに、当時の試験内容は、文章力や詩をつくる力などが試されたそうです。
そこで、もし落ちたら、そこで終わりです。家に帰ることになるのです。
合格したら、いよいよ、科挙の試験が始まるということです。
そして、33名が選ばれて、そこから、官吏になれる人はその半分以下。
たいへんな試験であることがわかります。
契丹との軋轢
ただ、国内において、このような官吏登用制度を確立しながら、
政治的に安定していくこととなる。
それと同時に、対外、つまり契丹との関係もうまくとりまとめることに成功するのです。
契丹は参加の侵攻にもかかわらず、国境地帯に橋や城をつくろうとしていました。
それを高麗は断固反対。
もし作ったら国交を断行するという強い姿勢もみせました。
実際には定静(チョンジュ)というところに侵攻されることになります。
しかし、またもや高麗がそれに打ち勝ちます。
契丹が宿敵であった宋に援軍を求めているぐらいでしたから、
そうとう契丹はたいへんだったことがわかるでしょう。
千里の長城の建設
そして、さらに北の国境線には西海(ソヘ)から東海(トンへ)まで千里の長城という長い城を作り始めます。
高句麗もこのような長い城があったという伝えられますが、まだ確認はされてないそうです。
完成は徳宗の死後ということにはなりますが、これによって、あるていど平和な時代が続くのでしょう。
また、徳宗の業績の一つとしてよく挙げられるのが、歴代王の実録の編纂でした。
これを「七代実録」といいます。
以前にも「七代事跡記」というものがあったのですが、契丹の侵攻によって焼失します。
再度初代の王建から7代までの王の事跡を記録することとなります。
とにかく、韓国はこの実録といわれる記録、つまり記録文化が膨大です。
記録することに執念を燃やします。
朝鮮もしっかり「朝鮮王朝実録」が残ってますよね。
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そちらも参考にしてみてください。
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