朝鮮王:イサン(正祖王)の文化事業と実学の復興そして丁若鏞(チョンヤギョン:1762~1836)の影響!

韓国の歴史
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日本の近代も興味深いが、韓国いや朝鮮の朝鮮後期の歴史も興味深いものがある。それは、日本と比較することで、両国の特徴が浮かび上がるのである。そこで今回注目したいのが、文芸復興とキリスト教の受容である。朝鮮では西の学いわゆる西洋の学問を受け入れること。しかしその中には正主教の受容は入っていない。つまり、正主教は度外視するのである。

なぜか。

それはあくまでも、朝鮮は儒教の国。先祖祭祀がもっとも重要な価値観として定着していたからである。キリスト教ではどうか。

先祖は「神」にはならない。つまり、崇拝の対象にはならないのである。

これは今の韓国においても、同様な葛藤がある。

それではその背景を、「正祖」の時代から見ていくことにする。

正祖の文化事業

英祖と正祖の時代は文化が復興した時代、つまり朝鮮のルネッサンスともいわれるほど、多くの文化人が活躍した。ヨーロッパの産業革命や新大陸発見を機に、文化が世界に伝播していく様相を呈した。これは、後にアジアの近代化への道と続くのであるが、日本もその流れに沿って近代化を進めていった。では、朝鮮ではどうだったのであろうか。

そのポイントとなるのが、実学という学問の隆盛である。

正祖はこれらの実学を学び研究する学者を、派閥に関係なく登用し、そして奎章閣(キュジョンガク)という機関を設け、学問の発展を促した。当時南人派と西人派の党争は続いていたが、彼はその派閥に関係なく、閣僚を置いて政治を施行した。

実学とは「實事求是」を重んずる、つまり社会に実際役立つ学問を研究するものと定義できる。今までは空理空論をかざして、儒教の性理学を重んじつつ、社会の在り方を規定してきた。これによって、人は聖人と凡人に分かれる。そして、人間の生まれながらにもつ性質「性」のあり方によっては、身分もわかれるといった、差別社会ができていたのが、当時の朝鮮であったといっていい。

しかし、興味深いのは、文化復興に貢献したのが、庶民や中人とよばれる人たちであったことだ。もちろん、学者の役割は大きかったが、庶民の意識の変化も注目すべきなのである。

燕行使

この文芸復興を助けた要因として、二つ目にあげられるのが、燕行使つまり、北京に行って帰ってきた使節団である。彼らは、清への朝貢するという形で、494回も赴いている。そこで、見聞きした文化を持ち帰って、自国に応用しようとしたのである。

元々明を本来の中国とみなしてきた朝鮮ではあったが、自らを小中華と称して、清を異邦人だと見下してはいた。それでも、徐々にその文化水準の高さを見聞きすることで、儒学者の中でも、良いものは学ばなければという、意識が芽生え、

それが、実学者、誕生の契機となったのである。

当時中国、つまり「清」ではマテオリッチのような宣教師を受け入れつつ、西学というレベルで、西洋の地動説や科学、数学を学び、それを「漢訳」していったのである。その「漢訳書」が朝鮮の知識人に受け入れられ、朝鮮に持ち帰ったことから、実学の気運が高まっていく。

ここでポイントとなるのが、「西学」である。これは、宗教いわゆる、キリスト教(正主教)は度外視するものであった。もちろん、自然とキリスト教を信仰するものが出てきたが、基本的には禁教なのであった。

もちろん、朝鮮の知識人の中でも、この正主教を信奉するものが出てきた。

重農学派

その前に、二つの実学派の流れをみてみよう。一つは重農学派とよばれる、農業、土地、というものを重視し、これらの改革を主張する学者のながれである。それが、柳馨遠(ユ・ヒョンウォン)(1622~1673)、李瀷(イ・イㇰ:1682~1763)そして、丁若鏞(チョンヤギョン:1762~1836)といった南人派の在野の学者であった。彼らは、地主制を廃止し、農民に土地を分け与えることを主張する。土地は国家の中枢とみなした。しかし、この土地改革は結局は実施されなかった。

李瀷は星湖学派を作り、弟子の教育に努めるようになっていった。丁若鏞は正祖の事業とくに華城の築城や王様の行幸時の漢江舟橋に貢献した。これはどこまでも科学的な見地から設計し、そしてスムーズに仕事が進むように設計したものとして、いまでも評価は高い。

それが、『起重架図説』『城説』といった書籍である。また彼は、『経世遺表』(中央政治)『牧民心書』(地方政治)『欽々新書』(司法)『我邦疆域考』(地理)『麻科会通』(医学) 言語や音楽に関する研究といった503巻もの書籍を残した。これらは、彼が流配の刑の後に、時間を持て余す中で作られたものであった。

それが、正祖の亡くなったのちに、書かれたというものであったがゆえに、非常に惜しまれるものといえる。正祖の後に、安東金氏の政道政治によって、実学発展の芽は閉ざされていくのである。

重商学派

次に重商学派の流れがあった。これは商工業を興すことによって、国を強固にするものといえる。「利用厚生」学派ともいう。

洪大容(ホンデヨン:1731~1783) 朴趾源(パク・チウォン:1737~1805) 朴斉家(パク・ジェカ:1705~1805) が代表的である。

洪大容は『医山問答』の中で地動説主張。朴趾源は洪大容と交流しながら、乾隆帝70歳を祝う使節(1780)として派遣される中、そこで見聞きしたものを『熱河日記』で執筆した。『両班伝』ではヤンバンを批判的に記して、文学の白眉として称されることとなる。朴趾源の弟子である朴斉家は、北京三回訪問。『北学議』の中で消費の必要性と水路貿易と通商の必要性をとく。

重農学派はどちらかというと、精神面に重きを置いた星湖学派であったのに対して、重商学派は、商工業といった外面の発展に重きを置いていることがわかる。

星湖学派は後にキリスト教への信奉し、李承薫という学者が洗礼(1784・3)を受け、朝鮮教会を誕生させた。

キリスト教への弾圧

しかし、ここである出来事が起こる。一つは教皇庁から「祖先祭祀」の禁止令が出される。また、ある信者が親の葬儀のために教会式に行うため、位牌を燃やしてしまうという、儒教ではあってはならない行為をしたとして、キリスト教への非難が勃発する。

これによって、多くの星湖学派たち140名あまりは死刑や流刑となってしまう。その中にいた、丁若鏞はどうしたか。かれは、キリスト教から離れていったという。

しかし、彼も一時はそのグループにいたことが判明し、彼の兄は死刑、そして彼も流配の刑となり、康津(カンジン)郡という片田舎で研究活動をするということとなる。

この弾圧を「辛酉教獄」という。これによって、キリスト教はもちろん、自由な学問への探求の道は閉ざされてしまう。

正祖の後、純祖(1800~1834)の即位、憲宗(1834~1849)と即位していくが、ここから、外戚が力をもつ「勢道政治」が中心となっていくのである。この時期に徐々に西洋からの開国が迫られてくることとなる。

今でも韓国では先祖祭祀とキリスト教信仰は相いれない。しかし、もし丁若鏞がこの先祖祭祀禁止にたいして柔軟に対処していれば、時代は変わっていったのかもしれない。彼が天才とまで言われるほど、明晰な頭脳と判断力を持っていたがゆえに惜しまれるものである。

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