韓国ドラマ『火の女神ジョンイ』は朝鮮の宮廷技術家である沙器匠(サギジャン)とよばれる職業集団をメインに描いている。それを分院(プノン)と呼ばれたそうだ。しかし、朝鮮では儒教思想が強かったせいか、手に職をもった技術者は高い身分ではなく、ドラマはどこまで真実化はわからない。
今日お話しする百婆仙(ペク・パソン)は夫と共に豊臣秀吉の朝鮮出兵を機に、日本佐賀藩に渡ってきたのは間違いないようだ。連れてきたのは肥前武雄の領主:後藤家信。家信は加藤清正の蔚山籠城の中清正を救った功績を立てている。百婆仙には夫がいた。彼の名を「深海宗傳(ふかみそうてん)」といい、この後藤家信の庇護のもと肥前国内田村を与えらられ、そこで窯を始めることとなる。この陶磁器が武雄焼きの始まりであった。
当時ここには多くの朝鮮人陶工がいて、900人以上にもなったとわれる。この深海宗傳(ふかみそうてん)はこの集団のリーダー格であったのだ。
夫・深海宗傳と共に
深海宗傳(ふかみそうてん)についてまず話しをすすめる。彼の朝鮮名は「金泰道」といわれるが、定かではない。日本に来た当時は新太郎と名乗っていたようだ。よって、この深海宗傳は与えられたものだろうか。ただある説によると、
深海はシンカイつまり彼が名前を発音したときに、シンカイと名乗ったところから、深海となったという説がある。これは
朝鮮の発音かそれとも中国の発音かわからないが、もしかしたら、出身の地、金海を発音するところから、そうなったともいわれる。韓国語ではキメであるが、それを日本発音にしたところシンカイとなったのだろうか。
とにかく、彼の出身は慶尚南道の金海、そして氏族は金海金氏だとう。
宗傳とは祖先という意味もある。よって金海金氏の祖先ということで、名乗り始めたと見えよう。しかし、これもまた定かではない。
彼は後藤家信によって武士の身分にもあたる家臣にしてもらい、さらに焼き物づくりを保護してもらった。もし朝鮮にいたらここまでの身分はなかったのではないか、そして焼き物を保護することまではなかったのではといわれる。
有田へ移住
1618年深海宗傳は亡くなる。それによって、妻の百婆仙は1630年に有田の地に移住する。その当時すでに1616年に有田の地で白磁の資源である泉山を金ケ江三兵衛つまり李参平が発見し窯を開いていた。そこに
息子の平左衛門と906名の陶工を連れて移住するのであった。
その時は彼女は70歳であったとう。
しかし
1637年に焼き物の資源である木の伐採が問題化する。陶工が集まりすぎて、木を伐りすぎてしまったのである。また
陶磁器の技術の保護もあり、佐賀藩はこれ以上の陶工が参入することを防ごうとするのである。
その後、有田焼の発展に貢献し、有田焼の後継者を育てていく。
有田焼の母といわれるのはこのことからである。
1656年に彼女は亡くなる。なんと96歳まで生きた長寿であった。
彼女は
百婆仙と百歳まで生きたおばあさんという意味だそうだ。
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