元寇。文永の役と弘安の役にわたる二度の元そして高麗の軍の来襲。
海の嵐や台風説が出る中、一度高麗内部の事情も鑑みる必要があるかもしれない。
果たして、高麗はこの日本侵攻に積極的だったのか。
動員された兵士はもちろん、船大工や水夫はどんな状況であったのか。
まずは、24代王が即位するところから見てみたい。
和平か抵抗か
当時は元の圧政に苦しめられていた。高麗王朝は武臣政権によって左右さていた。そして江華島に都を移し、モンゴルへの徹底抗戦を敷いていた。しかし
徐々に国土は荒廃、民は疲弊していくなか、王や貴族は和平交渉への道を模索していた。モンゴルへの朝貢をすることを主張。それに反して、武臣政権側はモンゴルに最後まで抗戦するという反蒙派であった。
そんな中ある事件が起こる。モンゴル帝国の皇帝、モンケ・ハンが死去したのである。
フビライハンと元宗
このモンケ・ハンの死去はのちの後継者争いに火がつく。特に兄弟であったフビライハンとアリクブケ。
フビライハンは南宋征服への任務があり、南宋攻略の真っ最中であった。そんな中、フビライは後継者争いへの布石をうつためにも、モンゴルへ帰還する。
そんな中、高麗王の23代王高宗(コジョン)の息子であり、太子であった晋こと元宗(ウォンジョン)がモンゴル朝貢のために高麗を出発しその途上であった。
偶然にもこの二人は出会うことになる。フビライの立場はいまだ後継者としての位置を獲得していない。高麗を味方につけることで有利に運ぶのではと考えた。
一方元宗もフビライの力を借りれば、高麗に再び王権が復古することができる。と考えた。よって、二人はwin-winの関係であったともいえる。
実際フビライはこの出会いが”神からの導き”だとも考えたという。高麗つまり古代においては高句麗。高句麗はあの隋の軍勢にも屈しなかった強い国。そしていまだにモンゴルに抵抗している。そんな点に高麗を高く評価していた。
後にフビライは自分の娘を元宗の息子、忠烈王に嫁に送っている。
武臣政権終焉
その元宗の狙いも的中した。フビライは皇帝になり、「元」と名乗り、中華への支配を固めていた。
高麗国内の武臣政権もこのフビライの後援によって、徐々に力が弱められ、最終的に武臣政権は倒れる。
ここに100年続いた「武臣政権」は終焉を迎えることとなる。
元宗は都を陸に戻し、もとの首都である「開京」へと都を移すことになる。
しかし、ここで問題になるのが、果たして王は国のこと、民のことを考えての還都つまり都への回帰だったのか。それとも、単なる個人的な王権復帰だけのことが目的だったのかである。
それ以降、朝貢によって和平は結ばれるが、それは「元」の一方的な干渉政策に圧迫されるだけであった。貢物はおろか、未婚の女性を送る貢女、兵の動員、兵糧、そして元寇では軍船の建造という過酷な要求が課されていた。
フビライの狙い
フビライの野望は自分が中華の皇帝に君臨すること。それが彼の生涯の念願だ。それによって中華名の「元」と名づけたことも理解できる。
しかし、いまだに南宋は攻略できていない状況。そこで、海からの攻略を考えた時に、高麗そしてその海の向こうにある「日本」からの侵攻を考えた。
日本は南宋との交易をしていた。硫黄や金が南宋へのと運ばれる。これによる南宋の国力が増すこと恐れたともいわれる。
そしてフビライは「日本」侵攻を考慮にいれる。それは、「高麗」の民や兵を動員することでもあったのだ。
しかしながら、高麗の国土は荒廃し、民は長い戦乱の中で疲弊していた。船は900百隻をつくったが、まともな船ではなかったという。
そんな船団が日本の海を航海し、博多に上陸したはいいが、嵐に合えばすぐに沈んでしまうのは頷けるであろう。いやそれ以上に高麗の兵士の士気も高いはずはなかったと思われる。
~解説動画もあります。~

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