「雲が描いた月明り」の世子であるイヨン。彼は朝鮮王23代王の純祖の息子。
純祖はあの聖君といわれる22代王正祖の世子。
純祖は世子になった年、正祖は急死する。そして朝鮮は
西欧列強の圧力の中で外戚による勢力が政治の中心となる。
純祖の即位
純祖は正祖の世子、つまり跡継ぎに正式に選ばれる。正祖の改革も軌道にのり、世子も選ばれた。
その矢先、正祖は48歳で昇華した。
今の韓国ではこの正祖がもっと長生きしていればという、考えをもつ人が多い。
その正祖は純祖を残し、世を去っていく。その純祖はまだ10歳の若さ。
10歳で王位に就く。1800年から1834年まで在位することをみると、結構長い部類にはいる。
しかし、その在位期間は彼の健康を害するほど大変なものであった。
10歳の若い王をサポートするのが、貞純王后(チョンスンワンフ)、英祖のとき15歳で王妃になった女性。彼女は今までの勢力を一掃するために、天主教への弾圧を強行し、政治の主導権をにぎる。
さらに、正祖時代、世祖に反対であった僻派政権を中心に、正祖の行ってきた改革業績を縮小及び廃止していくのだ。
安東金氏の勢道政治
1805年に貞純王后は60歳で逝去する。そののち、純祖の王妃であった純元王后(スンウォンワンフ)の外戚が力を強めていく。これが
安東金氏一族であり、こののち展開される政治を「勢道政治」と呼ぶ。
王はほとんど操り人形のような立場で国政に携わるのであるが、安東金氏の外戚が19世紀後半まで朝鮮社会を治めていく。
その後、朝鮮全土に社会不安が起こり始める。
社会不安
その一つが両班の売買である。両班をお金で買うという行為。
商人の中にはお金を蓄え、その財政力で、両班を買うという行為を実行するのである。
それゆえに、その当時人口の半数が両班になったといわれる。
さらに科挙も有名無実化した。これも賄賂によって科挙に合格するものがでてきたからである。
純祖王はこんな社会をみながら何を思ったであろうか。
そして、極めつけは、1811年洪景来の乱がおこる。これは朝鮮全土を巻き込むほど、大きな反乱であり、鎮圧はされるものの、社会に与えた影響は計り知れないという。
純祖はこのような社会の不安を前にして、徐々に健康を害していく。
朝鮮の王は、こういった社会不安や党争の激化によって、心身を病むというケースが多いような気がする。朝鮮の王になるというのは大変なことなのであった。
そしてこの混乱を打開するために純祖は、思い切った政策にでる。
孝明世子(イ・ヨン)への期待
1827年、純祖は息子(世子)である、イ・ヨン(ヒョミョンセジャ:孝明世子)に代理聽政つまり、王に変わって政治を行うよう命ずる。
英祖のときもサドセジャにこのような命を下すことがあった。が、そのときは、英祖の主導であり、サドセジャはそれを横目でみながら、プレッシャーに耐えていったのであった。
この純祖のときは、イヨンに完全に政治を任せるという意味があり、英祖のときとは大きな差がある。
イヨンはもともと頭脳明晰であり、成均館(ソンギュンガン)に8歳で入学するのである。父純祖の期待は膨らむばかりであろう。
さらには、イヨンは文芸に長けていた。詩を多くつくり、兄弟を思いやり、そして舞踊の素質があった。かれは
改革の手段に祝賀の行事を多用した。そのときにメインにしたのが、
舞踊であった。彼自らも先頭にたち宮中で指導をしたといわれる。これを按舞という。
「進饌儀軌」の記録には楽器、舞踊の様子などが見事なまでに詳細に記載されている。どのように踊るのかがまるで、その場で指導を受けているかの如くの記録書である。
しかし、これは単純な舞踊や演奏を披露するためのものではなかった。その当時政権を担っていた安東金氏をけん制するためのものであったのである。かれは徐々に
人事を実行し、王権の強化を図りつつあった。そんな矢先に。
朝鮮王跡継ぎ絶たれる
イヨンは突然病に倒れる。彼は自分で薬を調剤するほどの薬学にも見識があった。
色々な手を尽くすが、結局は、22歳で帰らぬ人となった。
その時の、父:純祖の衝撃はいかばりであったであろうか。
彼はこんな言葉を残す。
”いままで私のように悲運の王がいたであろうか。これは現実ではなく、夢でも見ているのだ”
その後、3人の娘も他界する。
残されたのはイヨンの子憲宗であった。
果たして、朝鮮の王の後継者は継承されていくのであろうか。
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