1.混ぜる韓国、混ぜない日本
私が韓国料理の特徴を一つだけ挙げよと言われたら、まっさきに
「混ぜること」と
答えるであろう。韓国に来た当時いまでも忘れられない経験がある。
それは、フェドッパプという海鮮丼のようなものがある。ご飯の上に、刺身と野菜がのっていて、コチュジャンを載せて食べる韓国料理である。
私は刺身が食べたくて、そのフェドパプを注文したのである。それを、出されたまま混ぜずに食べていた。するとお店の人がやってきて、
「これは、コチュジャンを入れて、こうやって食べるのよ。」
と言って、コチュジャンと野菜、ごはん、そして刺身全てをどんぶりの中で、かき混ぜて私の前にそれをわたしました。
真っ赤になっていたました。
混ぜるということの現場をもろに目撃した最初の経験だったかもしれないのです。
その外にも、ビビンバは代表的な混ぜご飯である。それと同時に韓国人が好きなのは、混ぜ焼きご飯。これをポックンパプという。
キムチとごま油をいれて炒めるだけなのだが、とても香ばしくおいしい。
韓国人はこれを好んで食べている。
混ぜるということは日常茶飯事である。
焼き肉も、焼き肉だけを食べない。かならず、レタス(サンチュ)に巻いて、そこにニンニクやナムル(野菜)を入れて一緒に食べる。これも、混ぜることに分類できる。
つまり、一つ一つ丁寧に分類して、食べていかない。
カレーも韓国は混ぜる。日本人はどうであろうか。混ぜないのである。
2.混ぜるということの意味
どうして混ぜるのか。
おいしくなるから、
早く食べれるから、
習慣だから、
色々あるであろう。
しかし、ここに文化が反映していないであろうか。
日本人は混ぜない。どうしてか、それは秩序をおもんじるからである。それゆえに、
一つ一つ形はあまり崩さずに食べ進んでいく。
ぐちゃぐちゃな、乱雑したものを、素敵なものと考えない、
整然としているものに、美を感じる。
韓国はどうであろうか。
整然としたものには、何か人間味がない。
それよりも、ごった返していることに、人間の生きざまを感じる。
社会には色々な人がいる、そんな人々がごった返して生きていることに、
真理、そして「美」を感じるのではないか。
韓国ではそれを、「モッ」という、すてき、すばらしい、をモシッタと表現する。
韓国人は外国人をみて、韓国語の上手な人には、
「韓国人みたいだ」と表現する。しかし、それを超えて、完璧な人に
「韓国人になったね」という。「人」になることを、評価する。
人間や社会は複雑極まりない。あるときは整然とはしていない。
どこか、いびつで、どこか、不完全である。それをありのままのものとして
受け止めること。ビビンパもそういうものとして、見ることができないかと思ったのである。ごちゃごちゃしているものが、この世の姿である。それに
「人間味」を感じるのである。
3.人間味
混ぜることは、一度整然とした秩序を崩す。
それは、人間が社会に出て、苦しみあえぐそして悩みながらも、成長していく。
日本語の粋のある、生き方に近いかもしれない。
それを韓国語でいえば、「モッ」である。
そしてそれは、色々な人々、色々な経験、色々な風景が混ざっている。
韓国人は一緒に食べる。同じ釜の飯を食うことが多い。そんな共同体に入ることで、人は成長していくのであるかもしれない。
ビビンパはそれを象徴していると、私は思うのである。
混ぜること、混ざることで、「味」が造成されるのである。
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