【雄略天皇紀】から見る日韓交流史。百済の島王(武寧王)の出生と倭との関係。斯摩(しま)王の人物像。

日韓交流史
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武寧王(ぶねい)王。百済の武寧王(むりょんわん)のことである。。武寧王は百済を再興した王として韓国では名高い。また、1971年に偶然に発掘された武寧王陵として推測される栄山里(よんさんり)古墳の埋葬者としても、話題を集めている王である。

百済25代王として即位し、462年に生まれ、523年に亡くなった。この出生が日本と深いかかわりをもつ。それが、『日本書記』に記録されている。

1.日本書紀の記録

 雄略天皇の記録の中に、百済の蓋鹵王(21代王)の御代、彼の弟である軍君(こにきし)に告げて、日本に行って天皇に仕えよと命ずる。そのとき弟は王にあなたの夫人を一緒に連れて行くように願った。王はその夫人が臨月であることを承知で、弟の願いを聞き入れた。その代わり、途中で出産したら夫人と子供は返すようにということであった。

その夫人は日本に行く途中に筑紫の加唐島で出産。その子を「嶋君(せまきし)」と名付けたという。また、「百済新撰」にはこの弟の名を昆支(こんき)君となっている。

1971年に発見された、武寧王陵から発見された碑文には「斯摩」となっていることと(日本書紀では嶋君と記録)、出生の年代も一致することから、記録が事実ではないかという見方が強い。

つまり、武寧王は日本で出生したということとなる。

2.三国史記の記録

三国史記を見てみる。そこには武寧王の記録に、諱を「斯摩」と記されている。ここで注目するのは、百済の内乱そして、高句麗との戦いにおいて、壊滅的な打撃を与えたとなっているところである。

512年には梁に使者を派遣し、朝貢させた。ここで、上表して「しきりに高句麗を破り、通行を許され、さらに強国となった」と記されている。

そして梁は百済に「使持節 都督百済諸軍事 寧東大将軍 百済王」を与えた。そして梁の最新文化を輸入していた。その代表的なものが武寧王陵のレンガ造りの石室であった。

またこの年から加羅の一部割譲が倭と議論されていた。そして継体天皇の513年に易経博士と交換でこの割譲を成功させている。

このことから、武寧王のときには、脅かされていた国難を乗り越え、国土の回復さらに、拡大へ成功させたといえる。

また、隅田八幡神社人物画像鏡の「男弟王(おおとのおう)の時代に、斯摩が長寿を念じて銅鏡をおくった」という記録から、対外的にも国際的な感覚の優れた王であったと予想される。

このような業績をもつようになったのは、どうしてなのであろうか。

3.武寧王陵の発見

武寧王陵の発見によって、日本との関わりがさらに確認された。それが、王と王妃の木棺である。この棺はコウヤマキ(高野槇)という日本でしか自生しない松の一種であった。水に強く朽ちにくい。湯舟材などによく使われるという。

その外に金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点に及ぶ遺物が出土した。

このような出土品からも、周辺諸外国と積極的に交流していたことがわかる。

4.飛鳥戸神社の祭神

彼はどこで、過ごしたのか。これほどの国際的な資質を備えるに、育った背景も関わっていないだろうか。これはいまだベールに隠されているのであるが、

先の日本書紀の記録と関連して、武寧王は昆伎と共に大阪の羽曳野市で過ごしたのではという説がある。ここに武寧王を祭る神社「飛鳥戸神社」がある。

こういった背景から、武寧王は日本で生まれ過ごしたという事実があるなら、非常に国際的な視野を身に着けたともいえる。

『日本書紀』の記述がどこまで史実かは検討しなけらばならないであろう。もしかしたら、蓋鹵王(がいろおう)につなげるために、正当化するための、作られた記録かもしれない。もしそうだとしても、武寧王が危機に迫った百済を救うための手段でもあり、そういった手腕があればこそ、国際的に認められる王となっていったともいえる。

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