本居宣長が『古事記伝』の天孫降臨の場面で、韓国(からくに)の解釈における、「から」を日本書紀から引用しつつ、「空」つまり不毛地とした意味はどこにあるのであろうか。韓と空(から)と解したことから、韓を否定的と見たという見解もあるが、韓国つまり朝鮮半島に対して否定的であったのかどうかを探ってみたい。
まずは宣長の『古事記伝』の解説を詳細に見ていくことにしよう。
“於是詔之 云々、此處の文は、かならず於是膂肉韓國、眞來通笠紗之御前而詔之、此地者朝日之云々、とありけむを、詔之此地者の五字、錯れて上に移り、膂字脱、【但し是は書紀に依て、姑膂とするなり、其字は如何にもあるべし、】”
宣長はこの箇所は本来、「於是膂肉韓國、眞來通笠紗之御前而詔之、此地者朝日之云々」(下線筆者)であったと主張する。「詔之此地者」は誤って文頭に移されてしまった。本来は「朝日之直刺國。夕日之日照國也。」ゆえに「甚だ吉地」なのだというのである。さらに、「向韓國」を『日本書紀』をもとに、「膂肉韓國」と大胆な解釈を試みている。
“肉字は、向に誤れるものなり、故今は其如く訓つ、【又は膂肉韓國眞來通、到坐笠紗之御前而、とありけむ、到坐二字、脱たるにもあるべし、】”[2]
ここにおいて、「向韓國」の「向」は「肉」字だったと誤字脱字を展開する。しかし、根拠のない空論ではなく、しっかりそれを『日本書紀』に根拠を求めて弁明する。
“膂宍之空國、自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之碕矣、其地有一人、自號事勝國勝長狹。皇孫問曰 国在耶以不、對曰、此焉有國、請任意遊之、故皇孫就而留住、”
“膂宍胸副國、自頓丘覓國行去、立於浮渚在平地、乃召國主事勝國勝長狹而訪之。對曰 是有國也、取捨隨勅、時皇孫因立宮殿、是焉遊息、”
“膂宍空國、自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之御碕。時彼處有一神、名曰事勝國勝長狹、故天孫問其神曰、國在耶、對曰在也、因曰隨勅奉矣、故天孫留住於彼處、”
“到于吾田笠狹之御碕、遂登長屋之竹嶋。乃巡覽其地者、彼有人焉、名曰事勝國勝長狹。天孫因問之曰「此誰國歟。」對曰「是長狹所住之國也。然今乃奉上天孫矣”
以上のように『古事記』の天孫降臨と関連とあると思われる『日本書紀』を4箇所挙げている。
「などある文どもと、合せて思ふにも、又語のさまを思ふにも、 眞來通笠紗之御前と云は、必ず地語にして、詔ふ御言には非ずかし、」
つまり、『日本書紀』の引用文から考えてみると、この「眞來通笠紗之御前」というのは、天孫邇邇芸命の言葉ではないということであろう。
ここで、宣長が言う「地語」とは何を意味するのか。
これは古語辞典によれば、「文章で、人の言葉や心の中の思いを述べた部分に対して、作者が話しを描写した部分」と記されている。『古事記』の作者が単に状況を描写したこととなり、邇邇芸命の発した言葉ではないことになる。
解釈に困難な「向韓国」や「眞來通」と「此地甚吉地」を切り離すことで、解釈の限界を超えようとしたとも考えられる。少々強引な読みという事は否めない。
しかし、果たしてそれが「韓国」の解釈や「韓国」否定と関係があるのか。
そこを次の「韓国」と「眞來通」への解釈からひも解いてみよう。
“韓国は、韓の借字にて、【もし此を正字とするときは、此にかなはず、其故は、まず書記神代上巻に、既に韓郷之嶋の事見えたれば、此に其国のことあるまじきには非れども、此国の古事は、みな大隅薩摩日向の間のことにして、東南に向へる域なれば、 向韓国と云べき由なければなり、】空虚国の義にて、即ち書記の空国なり、”
韓は借字であり、本来の意味(義)は空虚という意味であり、『日本書紀』の空国にあたるという。書記では「空」つまりムナと読むが、宣長はそれを空虚とした。
どうしてだろうか。
ここが本記事のポイントである。空虚とは書記にはない。これはあくまでも宣長の解釈である。では何をもって空虚としたのであろうか。続けて、『古事記伝』を見てみることにしたい。
“凡て物の、内の空虚して、実の無きを、加良と云、殻なども其意なり、”
空虚とは実が無いものであり、カラといったり、殻などもその意味となる。
彼にとって実がないということはどういうことであろうか。
これは漢心と規定したことと深い関係があるのではないだろうか。
つまり、からごころとは「中国というある特定の国を指すのではなく、主に儒教のもつ「理」で万物を説明したり善悪是非の道徳を論じる規範的な考え方をさす」のである。
それに対するのが「もののあはれ」を知ることである。彼の思想の根幹がこの対立にあった。
彼の言う「カラ」つまり空虚とは、「もののあはれ」に始まる、真心や大和心が失われた世界一般を指すのではなかろうか。
彼にとって、「カラクニ」といったところは漢字にはとらわれない、音だけの世界の中で、空虚な世界と捉えていた。特定の国や世界ではないのである。
そこから派生して、「カラクニ」は中国、朝鮮、インドなどといった皇国以外の国々を総称していくようになるのであった。または熊襲などもそのうちの一つと考えていた。
“さて、書記の空国をば、昔よりムナク二と訓れども、胸副国に、空字をかかずして、別に胸字を書かれたるを思へば、カラクニと訓べきにや、されどムナク二と訓ても、意は同じ、”
『日本書紀』ではムナク二と呼ばれている。「カラクニ」とは呼ばれてはいないが、意味は空虚の意味である。
それはどうしてか。
彼にとって「もののあはれ」の無い世界は「むなしい」からであった。よって、書記にある「ムナ」の読みと「カラ」と通じあっているのである。さらに、『日本書紀』を忠実に取り入れながら、
“さて、此処は、向空國と云ても、聞ゆるが如くなれども、なほ然にはあらで、向字は、肉の誤なるべく、又膂に當る字の脱たることも、論なかるべし、”
と述べる。たしかに書記には「空国」の前に「膂肉」という言葉が全ての箇所にある。
ここで彼は、 「向韓國」ということを避けたがために、「向」を「肉」として解釈しようとしたのであろうか。
都合のいいように「肉」を当てはめたのであろうか。
しかし、「空国」の前に形容されている文字が明らかに、「膂肉之」が形容されている。ここから、「カラクニ」を理解するうえで、『日本書紀』を引用し、「向」字を「肉」と解釈し「膂肉之空国」と構成することは『古事記』を生涯かけて解釈してみようとしていた宣長には荒唐無稽な解釈でもないと考えられる。
“さて膂肉空虚国は、書記口決に、膂宍空國、荒芒地、仲哀紀曰 熊襲国者 膂宍空國也、膂脊なり、無肉以譬不穀之地といひ、纂疏に、空国則不毛之地とあり、これらの意なり、”
「膂肉空虚国」に関して「荒芒地、無肉以譬不穀之地、不毛之地」といった要素を導いている。
宣長にとって、「カラ」とは特定の地域や国を指すものではなかった。「カラ」は最初から日本以外のもの、つまり漢心に染まらないものという認識が前提にあった。
それは何か。
まさに彼が信じてやまなかった日本神話の中にある「大和心」であり、「もののあはれ」を知る心であった。
「膂肉空虚国・荒芒地・無肉以譬不穀之地・不毛之地」とは実りのない、豊作が期待できない、というよりも、「もののあはれ」を知らない、理解できない世界という意味をもっていたのではないであろうか。
よって、天孫邇邇芸命が降臨するときは、このことを前提として「よい地」を求めるという解釈をすることになる。
では「よい地」となる条件は何であったのであろうか。
それが、『古事記』にある、「朝日之直刺國。夕日之日照國也」ということが条件としてあった。朝日や夕日が照らされていることが、「吉地」すなわちよい地となったのである。
ではなぜ日本の神にとってそれがよい地となり、彼自身もそれをよしとしたのであるか。
それは宣長の古典研究と生活態度に非常に密接に関連しているのである。
宣長は桜を愛することで有名である。有名な六十一歳の自画自賛像にも「敷島の大和ごころを 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花」という和歌がある。
大和心は朝日に照り輝く桜のようなものだといった。それだけではない、彼は生涯「桜」そして「春」を愛した。「枕の山」という死の一年前に編纂した詩集をみても、その桜だけでなく、春を待ちわびる心境を詠っている。いくつか引用するとそのことが理解できる。
“春ごとに にはふ桜の 花見ても 神のあやしき めくみをそおもふ”(「枕の山」)
これは春に咲く花が神の恵みのように思われると、崇高な気持ちを表している和歌である。彼にとって、日の照り輝く桜の花は神々しいまでであった。さらに、死んだ後もそれを抱いて永世することを願って次のような歌を残す。
“山室に 千とせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそみめ”(「石上稿」)
山室山の墓地で眠りながらも、春の花を見ながら愛でていたいということであろうか。そして「春」への執着は彼の子息、春庭や春村と名を「春」に因んだ名前を付けていることからもわかる。
「から」とは「やまとごころ」と対峙する意味で、空であったのである。
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