1.松阪という町。松阪もめんと豪商。
数年前に松阪を訪ねました。それは京都を回って、伊勢に行く経路で、松阪によるというものです。ちょうど、本居宣長という人物について読んでいたこともあって、松阪にはでひ一度は行ってみたいと思っていたからです。
松阪駅にまずついてみての感想は、とてもゆったりして、高い建物もなく落ち着いた町だということでした。ホテルはホテルルートインという料金も手ごろな場所を選びました。ホテルのスタッフの方が地元の人なのか、アットホームな感じでよかったです。
ホテルルートイン松阪駅東松坂は蒲生氏郷という武将におって、計画的に作られたまちだそうです。その中心に松阪城がありました。
さらに、伊勢へのお参りにたくさんの人が京都や全国からきていたので、その通り道や宿場として、人々はにぎわっていたそうです。何よりも、情報交換ができるそんな街でお客さんをもてなすそんな街だったということです。
それでいて、複雑な街でもなく、とてものんびりとして、過ごしやすい街だという印象をうけました。ちょうどその時は松阪の祇園祭りの準備にいそしんでいました。
この松阪といえば、すぐれた商人を輩出したことで有名です。三井家がその代表ではないでしょうか。その他にも江戸にお店をたくさん出していた、長谷川家や小津家も豪商といわれます。本居宣長の家計もその小津家です。
彼は学者ではあるのですが、もともとは商人の家で生まれ、将来も江戸で木綿問屋をするはずでした。しかしながら、その後は医者となり、学者としてあの『古事記伝』と書くのです。松阪はまさに日本を代表する豪商、学者などを輩出した街なのです。
位置的にも京都や伊勢に近いことが、人々を成功者に導く風土があったのでしょうか。信長もこの地を指定して多くの商人を呼び寄せたといいます。
もともと、機織りの技術が伝えられたところで、松阪木綿、松阪嶋として名を残しています。これは、渡来系の漢機⁽あやはとり⁾や呉織⁽くれはとり⁾という渡来系氏族が定住したことから発展したそうです。
私のような旅オタクには松阪は穴場ですし、歴史オタクもぜったいハマってしまいそうです。
松阪城跡のほうに向かうと数々のお店がならんでいてこれも旅行者を楽しませてくれます。
2.本居宣長をめぐる。
私は本居宣長記念館と彼が過ごした部屋、鈴屋⁽すずのや⁾を訪れました。館内には宣長の自筆の書籍が並べてあり、館長が直接あってくれて、いろいろ説明してくれました。

何よりも驚いたのは宣長の部屋でした、二階にあがる梯子があってそこに登ると彼の部屋。そんな部屋で毎日書物を書いていたそうです。
それも、彼は医者でしたから夜仕事が終わってから、部屋にこもって作業するという毎日。その部屋はというととてもこじんまりとしていていました。しかし、そこからの眺めはたいへんよかったといいます。確かに松阪には何か物事に集中できるそんあ雰囲気があるようでした。訪ねてみた感じですが。
とにかく集中できたのでしょう。昼は往診、夜は執筆という生活。この松阪という街から、大学者がでるのです。
3.妙楽寺と山室山
実は私が気になっていたのは彼の墓でした。彼はなんと2か所、お墓を指定します。
1.市内にある、妙楽寺という本居家代々のお墓です。もちろん、仏教式で、かれの家は浄土教だったそうです。そこに立ち寄りました。市内にあって、見つけやすいのです。
しかし、彼は弟子にもう一つの墓を指定します。それは山奥にあって、彼の独自の方法でした。神道式ともいう人もいますが、彼の学問から考えると、国学的ということも言えるのでしょうか。
2.山室山のおくつき。その近くに妙楽寺というお寺があってここによく彼は通っていたそうです。そんな縁もあって、彼はこのお寺のある山奥にお墓をもう一つ立てるのです。
どうしてか?
それはいまも「なぞ」に包まれてます。
私は思います。行ってみてそう思ったのですが。静かで、だれも来ない。そして山室山の頂上ですので、眺めがいい。松阪を見渡せる。そんなところが生前好きだったのではないでしょうか。
そこで安眠したいから、市内のお墓よりも、山の自然の中で過ごしたい。と思った。
私もそこに足を運んでみました。松阪駅には観光案内所があります。そこで、聞いてみました。バスなどがあるかどうか。ないそうです。歩いていくしかない。と思い、朝早く起きて、歩いていったのです。大変時間がかかりました。
それでも、松阪の自然を思う存分、そして宣長もそんな自然をたわむれたのではないかと思えるほど、自然の中をとにかう歩くことができました。
生き方は、松阪の駅からまず
国道42、熊野街道を歩きます。まっすぐ。
その次に
駅部田西とうい信号を右に国道700に入ります。そこもまっすぐです。
そこは山室町という畑しかないところを道が通っています。
目の目に山室山が見えます。そこを入っていくのです。すこし不気味が悪かったのですが、宣長はこんなところを愛し、ここからいろいろなアイデアを生んで過ごしたのかと思い、彼の原点はこの山だったのかもしれないと思うようになりました。
宣長記念館の人によると、彼はとてもたくさん歩いたとのことです。
そうですよね。当時の人に車やバスなんてなかったから、それが普通だったのでしょう。
山の途中に妙楽寺がありました。ここで彼は和歌をつくったりしたのです。さらにすぐ上には彼の碑石が建てられてありました。
ここまで、お葬式のときに棺をかついだそうです。つまり、街の中のお寺は形式的に彼の屍はない。この山に棺をもってきたのです。
きっと、昔は両墓制のようなものもあったのかもせれません。二つお墓をもつこと。そして、山にお墓をたてること。韓国は今も山の中にお墓があります。
ある研究者によると、どうして山の中にお墓をたてるのか。
本居宣長 [ 熊野純彦 ]それは、ふるさとの子孫を見守ることができるから、ということを述べていました。昔は子孫や先祖とのかかわりが深かったのでしょうし、先祖が神のように見守るという意識があったと思います。
宣長も大好きだった、山室の山で子孫を見守りながら永眠しているのです。
最後に彼の死の直前のこした和歌を載せます。
今よりは はかなき身とは はけかしよ
山室行詠草より
千代のすみかを もとめつれは
千代つまり永遠の住処がこの山室であると述べています。
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